自然と不自然 2015.4.6(月)
友人が演劇を始めたとのことで、観に行ってきました。
これまで滅多に演劇を観ることがなかったので、人の声や体で何かを表現するということがすごく新鮮でした。「生と死」がテーマになっており重い内容かと思いきや、「死」が“死後の魂のふれあい”みたいなふうに書かれていて、深刻なものというより意外と身近な感覚で観ることができました。
目の前で繰り広げられるいろいろな世界に、観ている自分たちも時折入り込んでしまったような感覚になったりしたのですが、短い場面でもちゃんと観客にその「世界観」を伝えられるのは何故だろうと思い、終演後にちょっと聞いてみました。そうしたら次のような返答が返ってきました。
「例えば父親と娘の食事風景を演じているとき、父親が娘に対して、または娘が父親に対して“どう接するか”で、ほんの短い場面でも2人の関係性が明確になる。日常の食卓の場面を演じているときでも、“日常”に見えるようにやっているけれど、それは決して日常の切り取りではない。エネルギーをMAXにして2人のリアクションを積み重ねた結果、観客にも瞬間的に伝わるのではないか」
その父親と娘の関係性を説明されなくても2、3回の会話で、仲がいいのか、仲が悪いのか、無関心なのか、とか、(この芝居の中では仲が悪かったのですが)どちらがいつも一方的に怒って、どうやって喧嘩が始まって終わるのかとか、そういう“日常”が見えてくるように、セリフや演技がちゃんと考えられている、ということなのでしょうか。
音楽と一緒なんですね、きっと…。今自分はどういう立場でどういう音を出すかを明確に作っていかないと伝わらないということか・・・はぁ(溜め息)・・・。『リアクションの積み重ね』って、カルテットとかきっと顕著ですよね・・・自分が出した音で相手も音色を変えてくるし、それによって次に自分が出す音も決まってきたり、それが面白いはずなんですけど、私の場合そんなに自由自在にできなくて苦悩するのがまたいい(笑)。
以前に指揮者に「不自然でいびつなことをしないと自然に聴こえない」と言われたことがあります。同じことを繰り返し弾いていることが返って不自然で、テンポや音の表情を変えることで初めてお客さんには自然に聴こえる、と。モデルさんがきれいに写真に写っているのも、普段は絶対にしないようなものすごく不自然に体をひねった格好をしたりして、それが例えば一番足が長くきれいに写る“自然な”ポーズだったりする、と。
え?何が自然で何が不自然??
自然に観える(聴こえる)ように不自然なことをして、それが不自然にならないように自然に・・・??・・・もうダメです(笑)