林 峰男 (はやし みねお)
プロフィール
幼少よりチェロを才能教育(スズキ・メソード)で学ぶ。桐朋学園において斎藤秀雄氏に師事。その後、ジュネーヴ音楽院を第1位で卒業。翌年スイス・ローザンヌ室内管弦楽団のソリストとしてヨーロッパにおいてデビューを飾った。 1975年、ベオグラード国際チェロ・コンクール第1位に輝く。1976年にはワシントンD.C.とニューヨークのカーネギーホールでリサイタルを開き、アメリカ・デビューを果たした。 なかんずく、カーネギーホールでのリサイタルは、ニューヨーク・タイムズが絶賛した。 また翌年にはスペインで開催された「カザルス生誕百周年記念コンサート」に招待され、日本を代表するチェロ奏者として高く認知された。
1976年以来、スイス/ロマンド管弦楽団、ザグレブ・フィルなど数々のオーケストラと共演する一方、室内楽、リサイタルなど数多くの演奏会をスイスを本拠地としながらドイツ、フランス、オーストリア、スペイン、イタリア、ベルギー、チェコ、アメリカ、イギリスなど世界各国で開いている。
日本へは毎年定期的に帰国し、全国各地で積極的な演奏活動を行っている。オーケストラもこれまでに新日本フィル、日本フィル、東京フィル、東京交響楽団、東京都交響楽団、東京シティ・フィル、大阪フィル、関西フィル、札幌交響楽団、群馬交響楽団、ロイヤルメトロポリタン管弦楽団、ロイヤルチェンバーオーケストラなどと共演している。
この間、1985年にはバッハ生誕300年を記念して「無伴奏チェロ組曲全6曲」を一夜で演奏するという画期的な演奏会企画で、全国17ヵ所・日本縦断コンサートを行い、脚光を浴びた。また栃木県大谷洞窟内で、月光を受けながら行った二夜連続の演奏会は毎日新聞にも取り上げられ、大きな反響を得た。京都・常寂光寺、東京・増上寺(開創600年記念)の本堂でリサイタルを行い、当日会場を埋め尽くした満員の聴衆に深い感動を与えた。無伴奏のチェロ曲を集めたCDも、欧州と日本で発売され、「レコード芸術」や「音楽の友」で高く評価され、現在でも隠れたベストセラーとなっている。
1995年には、カザルスホールにおいて「デビュー20周年4日連続演奏会」を開催。ピアノの園田高弘氏との共演をはじめ、無伴奏リサイタル、オーケストラとの共演、チェロ・アンサンブルという多彩な内容は、朝日新聞でも大きく取り上げられ、連日ホールを満席にした。 今後ますますの活躍が期待される日本の代表的なチェロ奏者の一人である。
現在、国際スズキ・メソード音楽院教授を務めるなど、後進の指導にも力を注いでいる。
林峰男さんにインタビューさせていただきました。
――チェロを始めたきっかけを教えてください。
父がほんとに下手なアマチュアで、チェロをやっていたんですよ。それで家に誰が触ってもいいような安いチェロがあって、興味を持ったんです。父はチェロが好きだったようで、それで始めさせられました(笑)
――それはおいくつの時ですか?
才能教育(スズキ・メソード)に入ってちゃんと始めたのは、僕が小学校2年のときです。
実家の近くに作曲家がいましてね、その先生も多少チェロを弾くので父がその先生に相談したら、才能教育の初代のチェロ科の先生で佐藤良雄先生とおっしゃられる先生が、フランスのパブロ・カザルスのところへ2年間勉強しに行っていて、1年か少し経つと帰って来られるから、帰ってきたあかつきには紹介しましょうということで、それで紹介していただいてチェロを始めたんです。
――以前に栃木県の洞窟や、各地のお寺で演奏していらっしゃいますね。
栃木県の大谷というところに大谷石の採掘跡がありまして、そこで演奏会をやったことがありますね。それからお寺での演奏というのは、最近ではやるようになったのでしょうけど、その頃はそういう話は聞いたことはなかったですね。1971年からヨーロッパに住んでますけどね、ヨーロッパの音楽ホールの状態っていうのはあんまりよくないんですよ。日本はあちこち小さな町にもホールがあるでしょ。でもヨーロッパにはなくて、でもその代わり教会があるから、教会がホールの代わりになるわけですよ。教会に値するのが日本だとお寺でしょ。お寺と教会では造りが違うわけですよ。教会は頑丈な石でできているから、お風呂場で演奏会をしているような感じで残響が多過ぎて、条件は決していいとは言えない。ところがお寺は木でしょ。弦楽器は木ですからね、楽器から発声された音を包む空間を作るものが木だったら、それは一番いいんじゃないかと思って、そういう発想で、ずいぶんお寺でも演奏会をやりましたね。
――これまで活動されてきた中で、思い出深い演奏会などありますか?
何十年とやってきましたからね、それはいろいろありますね。
例えば、僕が始めて演奏会をお寺でやったのは、京都の嵯峨野にある常寂光寺っていうお寺なんですけどね。無伴奏だったんですけど本堂を閉めて中でやるんですが、日曜日でしたから参拝客が多いでしょ。本堂が閉めてあってもガラス越しに参拝者が来て、お賽銭投げて拝んでるわけですよね。そうすると、拝んでる先に仏像があるんですが、仏像と参拝者の間に僕がいるから、言って見れば僕に対して拝んでるようでね、それがとてもおかしかった(笑)。
それから、1975年に旧ユーゴスラビアのベオグラードというところにある国際コンクールを受けて優勝して、それをきっかけにして演奏家になったんだけど、そのコンクールが創立20周年のときに審査員として呼ばれて、オープニングコンサートのセレモニーでオーケストラの伴奏でコンチェルトを弾いたんです。そのコンクールは毎年行われているんですが、チェロは5年おきにしかコンクールがない。創立5周年のときに第1回目のチェロのコンクールが開かれてそこで僕が優勝したので、僕が始めての優勝者なんですよ。それでセレモニーで演奏することになったんですが、コンクールを世界中から受けに来た若い人たちや世界で有名なチェロの審査員の前で、それからテレビもラジオも実況放送してる中で演奏するので、もうそれはほんとに怖かったですね。そういうことが何回かありますね。
――それだけご経験を積まれていてもそれほどに緊張することがあるんですか?
みなさんあると思うけど、特に僕の場合はベオグラードの国際コンクールを受けて、ソリストとしての演奏活動を始めたときもう30歳でしたからね。それまでは演奏らしい演奏はほとんどしたことがないわけですよ。エネルギーがあってなんの怖さも知らない10代の後半から演奏活動をしたわけではないですからね。そういう意味のハンディはあるんじゃないかなと僕は思いますね。子供に演奏させたって、子供はあがったりなんかしないでしょ。大人になってからみんな余計なことを考え始めて。うまく弾けるかとか (笑)。
――30歳になるまでは、ソリストになろうとそこまで思っていらっしゃらなかったのですか?
思っていませんでしたね。今住んでいるスイスのローザンヌのオーケストラに入っていましてね、ソロを演奏する機会はなかったですし。
――オーケストラの奏者としてやって行こうと思っていらっしゃったのですか?
ええ。まさかそんな自分がソリストになろうなんて気は全然無かったですね。
――やっぱりソリストとオーケストラの中で演奏するということは全然違うことなんですか?
もうね、それは、全然違いますよ。例えばシンフォニーオーケストラだとチェロは10人ぐらいいるでしょ。間違えても責任はないわけですよ。まあ年中間違えてたらクビになるだろうけど。ソリストっていうのはやる演奏がどんな小さな演奏会だろうと、大きな演奏会だろうと、自分の万全の状態のものを見せないといけないわけでしょ。100%っていうのはそれは大変なことだと思うけど、100%で弾こうと思ったら練習の時に100%じゃ絶対ダメですからね。120%150%できないと。100回できたってもしかしたら101回目に失敗するかもしれないし。やっぱりそれから完全な状況や状態で演奏できないでしょ。人前で演奏するわけだから、聴衆が咳をするかもしれないし、目の前の聴衆が体を動かすかもしれないし、子供がいて動くかもしれない。完璧な状態の中で完璧な演奏をしようっていうのは不可能。あんまり音響の良くないホールだとか、暑かったり寒かったり湿気が多かったり。人前で完璧を追求するっていうのは大変なことです。
――120%150%の練習というのは、それはどこまで追い込んで練習すればよいのでしょうか?
それはやっぱり、人間だし、1日は24時間しかないし、人間の肉体だって持続性っていうこと考えたら続かないし、それはまあ最終的には妥協になるんでしょうけどね。もうこのくらいで大丈夫だっていう、、、それしかないですよね。
――それだけ演奏活動をされていて、とても大変だと思うのですが。
40度近い熱でキャンセルしたいなと思うことがあっても、ステージにパッと踏み出すとそういう気持ちは一切なくなりますね。よく言うけど、例えば風邪ひいて咳込んでいても、ステージにいるときに1回も咳をしなかったとか。やっぱり緊張感もあるからでしょうね。
――休日は何をされているのですか?
僕たちには休日っていうのはないですよ。例えば僕が日本からスイスの家へ帰って、間近に演奏会があったら弾かなきゃいけないけど、ないときは弾かなくてもいい。でも結局はチェロを弾いてますね、毎日。それは仕事だし、一つにそれが習慣になってるから。朝起きたら歯を磨くように、朝ごはんを食べるように。逆に言えば他のことに興味持てないでしょ。持つ時間も余裕もないしね。もちろん24時間チェロを弾いてるわけではないけど、チェロから離れてもやっぱり音楽が頭から離れないしね。
――今第一線でご活躍ですが、音楽に限らずこれからやってみたいことはありますか?
音楽以外ではないですね何も。チェロもいつかは辞めますけど。みっともないかっこうするのは嫌だからね。生活のためにチェロを弾いてきたわけじゃない。大変厳しい仕事なんだけどやっぱり好きでやってるでしょ。普通のサラリーマンは定年退職が近づくと、退職したらあれをやろうとかこれをやろうとか今までできなかったことをおそらく考えるんでしょうけど、それはそういう欲求があっても今までできなかったから、退職したらやりたいと思うんでしょう。僕たちは言っても趣味も兼ねてるようなもんだからね。好きでやってるから。他に何かって、、、何もないでしょうね。僕はね。
――チェロを辞める時がくるだろうっていうのは思っていらっしゃるんですか?
もちろん思ってますよ。チェロを弾くのってやっぱり運動ですからね、肉体的に限界がくるでしょうし。大変なものだから。かっこう悪いことはしたくないから、自分の思うように弾けなくなったら辞めますよ。僕が思ってるのはね、何歳っていうのは言えないんだけど、バッハの無伴奏の組曲が全部で6曲あるでしょ。あれを1曲弾く時に、もちろん本番のコンサートでね、暗譜で弾けなくなったら演奏活動を辞めようと思ってます。それが1つ目安だと思ってます。
――何か今後チェロや音楽に携わる若い人たちに何か期待することはありますか?
まあ期待するというか、僕は20年近く前から才能教育で仕事をしてるんだけど、やっぱり小さいときからよい教育を受けるっていうこと。間違った教育じゃなく正しい教育を受けるということが一番大切ですよ。なんでもそうでしょうけど、スポーツだって小さい時に習ったコーチが大変素晴らしかったということを有名な選手は言うけど、結局初期の教えというのはとっても大切ですよね。
――正しい教えを身につけるということですか?
身につけるというよりもそういう先生を選んでね。僕は松本にある才能教育のスズキメソード国際音楽院で教えてるんですけど、僕が教えてるチェロの生徒たちは2、3年そこで勉強して才能教育の先生になるわけだ。彼らにもよく言ってるんだけど、一度「先生」と名前が付いたらね、それこそ社会的責任って言うのがものすごくあるわけよね。一度「先生」と名前が付くと、もしかしたらくだらない教育を初歩の段階で与えてたら、将来大変なチェリストになれる可能性を秘めてる子供だってそうなれないわけでしょ。それは一生を潰してることになるから、そういう先生は下手すると刑務所行かなきゃいけない(笑)。人の一生を握ってるんだから。そういう自覚をもって教えてる先生が世の中に何人いるかわからないけども生徒にはそう言ってますけどね。
――演奏活動とレッスンを両輪でやっていらっしゃる方は、なかなか大変なのではないかと思うのですが。
いや、でもそれは両立できる。両立させなきゃいけないと思うのは、人を教えることによって自分も勉強になるじゃない。実際生徒に教える曲ぐらい自分でほんとは弾けなきゃいけない。弾くって言っても家でただ楽譜を読むんじゃなく、一度本番をやると全然その曲は違ってくるからね。勉強の仕方も違うし、掘り下げていく時間も必要だし。指導者っていうのはほんとは演奏もできなきゃいけない、少しはね。幸いなことに僕は演奏家だから生徒がどんな曲をもってきても、チェロはレパートリーが少ないしほとんどの曲は弾いたことがある。よく思うけど、例えば音大で教えてる先生だってほんとの演奏家って少ないでしょ。そうするとおそらく弾いたことがない曲も生徒に教えなきゃいけない。例えば生徒がコンクールを受けるなんて言ったら、教えられるのかなと思う。自分が演奏会で弾いたことのない曲を。
――演奏することと教えることは別なんだと思っていたのですが。
いや、“演奏”を生徒に教えるんだから。演奏家が教える場合は別に何の苦もないだろうけど、逆に先生として生計を立ててる人は大変な仕事だと思うけど、少しでもやっていかなきゃ。ある程度はね。
日本の教育って面白いと思うんだけど、僕は桐朋(桐朋学園大学)出身なんだけど、例えば桐朋に入って有名な先生につきたいと思うと、高校に入る1年前くらいからプライベートで定期的に行ってレッスンを受けなきゃいけない場合がほとんど。習慣的にね。それで入学して高校3年間でしょ。高校に入る前に1年だから、高校卒業の時点で4年間その先生についてるわけよね。それで今度大学に行くとまた4年間で、合わせて8年間。優秀な成績だとさらに2年いくとなると1人の先生に10年もついてる。そんなところって、日本以外ないと思うよ。おそらく世界にそんなに類は見ないと思う。逆に言えば非常に無駄な教育システム。中学3年、高校、大学っていう一番肉体的にも発達するそんな大切な時期に、どんなに素晴らしい先生だとしても10年もついてるなんてことは…。音楽学校って日本では専門学校として捉えらるから義務教育が終わってからでしょ。音楽小学校や中学校なんてない。でもヨーロッパではあるところにはあるわけよ。そういうところでは音楽が主で、最低限の一般教育を受けるのかな。音楽小学校を卒業すると、今度は中学で違う先生に教わるわけよ。高校に入ると高校でまた違う先生に。さらに音楽アカデミーに入るとその国を代表する先生が教えていて。だから、いろんな先生からいろんなことを吸収できるわけよ。僕もこの年で教えてるけど、1人の生徒に10年なんてね、マンネリ化してね。そんなに1人の先生に許容量っていうか、“箱”があるかなと思ってね。例えば高校に入る時についた先生が、その先生はそのまま大学でも教えてる。日本は風習っていうか習慣っていうかで、家元制度じゃないけど他の派閥にいくっていうのは考えられないのと同じで、くだらないことだけど音楽の世界もそういう習慣だから、他の先生に付こうなんて言ったらそれはね、もう大変なことになる(笑)。だから10年間自分の付いた先生を尊敬してなきゃいけない(笑)。先生も大変だろうし生徒も大変だろうね。
――いろいろな貴重なお話をありがとうございました。
2014年8月取材
※インタビュー内容・写真は取材当時のものです。
※プロフィールの内容は2014年8月25日現在のものです。
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