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堤 剛(つつみ つよし)

category : チェロ奏者のご紹介 2017.9.13 

プロフィール

名実ともに日本を代表するチェリスト。
幼少から父に手ほどきを受け、1950年に8歳で第1回リサイタルを開いた。桐朋学園子供のための音楽教室、桐朋学園高校音楽科を通じ齋藤秀雄に師事し、1956年に文化放送賞、翌1957年に第26回日本音楽コンクール第1位および特賞を受賞。1960年にはN響海外演奏旅行にソリストとして同行して欧米各地で協演し大絶賛された。
1961年アメリカ・インディアナ大学に留学し、ヤーノシュ・シュタルケルに師事。1963年よりシュタルケル教授の助手を務める。同年ミュンヘン国際コンクールで第2位、ブダペストでのカザルス国際コンクールで第1位入賞を果たし、以後内外での本格的な活動を開始。
現在に至るまで、日本、北米、ヨーロッパ各地、オーストラリア、中南米など世界各地で定期的に招かれ、オーケストラとの共演、リサイタルを行っている。
共演した主なオーケストラには、ボストン響、アメリカ響、モントリオール響、バンクーバー響、トロント響、ロンドン・フィルハーモニア管、スイス・ロマンド管、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管、ウィーン響、ドレスデン・フィル、チェコ・フィル、プラハ響、ローマ・サンタチェチーリア管など、枚挙に暇がない。
また、日本のオーケストラの海外公演にもしばしばソリストとして選ばれ、1974年新日本フィル世界演奏旅行、1984年東京フィルのヨーロッパ公演、1986年N響のニューヨーク公演に同行した。
1991年から2011年までの20年にわたり、竹澤恭子、豊嶋泰嗣らと共にサントリーホールで結成された、“フェスティバル・ソロイスツ”においては、毎年内外から多彩なソリストを招いて室内楽コンサートを開催、室内楽演奏会という形態における一つの時代を創った。また、“堤剛プロデュース”と題するリサイタルシリーズも毎年開催、チェロの様々な魅力を意欲的なプログラミングを通して紹介するシリーズとして注目を集めている。
そのほか、パリでのロストロポーヴィチ国際チェロコンクール、ミュンヘン国際コンクールなど多くの国際コンクールの審査にもしばしば招かれている。
これまでに受賞した主な賞としては、『1992年度日本芸術院賞』をはじめ、1971年《バッハ無伴奏チェロ組曲》全曲連続演奏会、シュタルケルとの共演、日本音楽の紹介などの目ざましい活動と成果に対して贈られた『第2回サントリー音楽賞』、1973年ブリュッセルの“ウジェーヌ・イザイ財団”より作品への優れた解釈に対して贈られた『ウジェーヌ・イザイ・メダル』、1974年“ニッポン放送新日鉄コンサート”のために録音した、三善晃の協奏曲演奏に対して贈られた『芸術祭放送大賞』、1987年『第7回有馬賞』及び『モービル賞』、1992年日本芸術院賞、1997年のサントリーホール堤剛プロデュース公演で現代日本の作曲家たちを取り上げた成果による『1998年中島健蔵音楽賞』などがある。2009年秋の紫綬褒章を受章。また同年、天皇陛下御在位二十年記念式典にて御前演奏を行った。2013年、文化功労者に選出。2016年「ウィーン市功労名誉金章」を受章。2016年夏の2度の『バッハ無伴奏チェロ組曲全曲演奏会』を称えて『毎日芸術賞 音楽部門2016」が贈られた。
近年では、アムステルダム・チェロ・ビエンナーレにおいて全曲邦人作品の演奏を手掛けるほか、J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲全曲演奏会、ピアノのブッフビンダーとのベートーヴェン:チェロ・ソナタ全曲演奏会を行うなど、益々精力的に活動の場を広げる。
録音における活躍も目ざましく、《バッハ無伴奏チェロ組曲全6曲》、《ベートーヴェン・チェロ・ソナタ全集》などで数々の受賞歴を誇るほか、2010年には演奏活動60周年記念盤「アンコール」、2013年には堤の古希を祝って日本の名だたる作曲家たちが書き下ろした新作を収録した「アニバーサリー」(ともにマイスターミュージック)、2016年には満を持しての「ドヴォルザーク:チェロ協奏曲」がリリースされ、絶賛を浴びている。
2001年より霧島国際音楽祭音楽監督。1988年秋より2006年春までインディアナ大学の教授を務め、2004年4月から2013年3月まで桐朋学園大学学長を務め引続き特任教授。2007年9月サントリーホール館長に就任。2009年9月よりサントリー芸術財団代表理事を務める。2017年3月より韓国芸術大学音楽部門客員教授就任。日本藝術院会員。

本文掲載

堤剛さんにインタビューさせていただきました。

――チェロを始めたきっかけはなんですか?
 子供の頃、神奈川県藤沢市に住んでおりまして、ある幼稚園の中に「スズキメソード」の藤沢支部がございました。両親が音楽家だということもあって、何か楽器をやらせたほうがいいということで、「スズキメソード」藤沢支部でヴァイオリンを始めました。ヴァイオリンを演奏することはすごく好きでしたが、練習をするのが本当に嫌いで逃げ回っていたくらいなんです。ヴァイオリンを始めて2年くらい経ってから、第二次世界大戦後初めて、名古屋にあるスズキヴァイオリン製作所というところで、1/2サイズのチェロを作り始めたそうなんです。それまでは、日本に1/2という子供サイズのチェロがなかったんですね。わたくしの父はNHKに勤めておりまして、当時のNHKは新橋の近くの内幸町というところにありまして、その新橋の近くに楽器屋さんがいくつかありました。その楽器屋さんの一つに父が懇意にしていた梅沢楽器店という楽器屋さんがあって、1/2の最初のチェロがそこへ来たわけです。父がある日その楽器店へ寄ったらたまたまそのチェロがあって、店主さんはわたくしがヴァイオリンをやっているというのはご存じだったので、「ヴァイオリンよりチェロの方がいいと言うかもしれないから、よかったらそのチェロを家に持って帰って息子さんに弾かせてみたら?」と父に仰ったようで、そのチェロを父が自宅に持って帰ってきたんです。「弾いてみて、もしチェロの方がよければ変わってもいい」と父が言ってくれました。チェロとヴァイオリンでは持ち方が全く違うのですが、同じ弦楽器なので基本的に同じテクニックなんですね。ですからチェロをちょっと持って弾いてみたらそのまま意外とすらすら弾けてしまったし、なんとなくこっちの方が自分に合っているのではないかなと思いました。子供心に音色に惹かれたと言ってもいいかもしれないのですが、そんなことがあって、本当に軽い気持ちでチェロに変わりました。当時、スズキメソードにはチェロ科がなかったので、チェロに変わって最初の年は父に手ほどきを受けました。チェロを持って混んだ電車に乗るのがいかに大変かとか、飛行機に乗るのに座席を買わなきゃならないとか、そんなことはもちろん全然知らなかったのですけれども(笑)。
藤沢はとても合唱活動が盛んなところで、今でもそうですがいくつか合唱のグループがありました。わたくしの母は元々声楽をやっていて、そのグループの一つに所属していたのですが、そのグループを主催されていた澤先生という方がたまたま齋藤秀雄先生と懇意になさっていたので、齋藤先生を紹介してくださったんです。「親が教えるというのは無理があって、もしちゃんとやらせるつもりだったらいい先生につかなきゃダメ」ということを仰ったようです。チェロに変わってから1年くらい経っていましたが、齋藤先生のお宅に伺ってチェロを聴いていただきました。わたくしとしては齋藤先生という方がどんなに偉い先生かということを全然気にしていませんでしたが、母はすごく緊張していたのをよく覚えています。鈴木鎮一先生が監修なさった教則本の中の、ブラ―ムスの子守唄か何かを弾いたような気がしますが、そういった小品をいくつか聴いていただいて、上手だとかそんなレベルではなかったんですけれど、齋藤先生は「この子は叩けば何かになりそうだ」、と思われたらしくて、レッスンを受ける許可をもらいました。最初は月謝もいらないと言われたのですけれども、いくらなんでもそれは申し訳ないということで、最初のお月謝として500円お渡ししました。当時としては結構な額ですけれども、先生のご経歴としては少額だったと思います。
それ以来、「子供のための音楽教室」、桐朋学園の高等学校を通じて、足掛け約10年間齋藤先生に師事しました。

――やはりヴァイオリンよりもチェロの方がしっくりきたのでしょうか?
そうですね。ただ、あまり練習が好きではなかったですし、自分が音楽家として一人立ちしていくとかそれを職業にするということはあまり強く思っていませんでした。毎週「子供のための音楽教室」へ行って、いわゆる音感教育とかアンサンブルのレッスンを受けたりはしていました。齋藤先生はすごく厳しい先生だったと言われているとおり、厳しいところは非常に厳しいけれども、子供の興味を惹くようなことをうまく仰ったり、子供の心を見抜くのがすごくお得意で、今から考えるととっても上手に教えていただいたと思います。なんとなくチェロを続けて、わたくしが本当にチェロを生涯の仕事にしようと思ったのは中学3年生の時です。当時の「毎日コンクール」現在の「日本音楽コンクール」で1位になって、やはりチェロしかないと思い、その時に初めてプロ意識的なものを持ちました。
齋藤先生はバッハをすごく大事にされましたので、子供にもわかるようにバッハを詳しく懇切丁寧に教えてくださったり、時々面白いお話をなさったりしました。わたくしがすごく汽車が好きだということをうまく利用してチェロが上手になったら旅行に行けるようになるとか、冬の北海道には「だるま列車」というのがあって、車両の中にだるまストーブがあってそれにあたりながら旅行するんだとか、齋藤先生はしばらく上海にいらしたことがあったので、上海というところでは中華料理が非常においしいとか、アメとムチというと簡単ですが、うまく引っ張っていってくださいました。
チェロ教育のメソードとしては、齋藤先生は最初はライプツィヒでユリウス・クレンゲルに、2回目はベルリンのエマヌエル・フォイアマンに習われました。当時のフォイアマンはカザルスと並んで世界のトップ中のトップで色々な音楽的なアプローチやテクニックでは時代を先取りしたような方でした。そのメソードをなんとか日本に根付かせようというのが齋藤先生のお考えだったので、それをわたくしどもに教えてくださいました。生徒はみなさん上手になりましたし、そういう意味でメソードとしてもよかったのではないかと思います。わたくしの先輩には平井丈一郎さんとか、もうお亡くなりになりましたが徳永謙一郎さん、1級下には倉田澄子さんや安田謙一郎さん、原田禎夫さん、2級下に岩崎洸さんとか本当に素晴らしい方がいらっしゃいます。皆素晴らしい勢いで上手になっていったので、齋藤先生の教え方というのは本当にすごかったんだなと思っています。

――齋藤先生は厳しいというお話を聞いたことがあったので、そういうイメージがあったのですが、堤さんの著書『チェロを生きる』を拝読して、齋藤先生は子供に対して非常に愛情深い方だなと思いました。
特に音楽やチェロに対しては厳しくて、音程を厳しく指摘されたり、少しでも練習が足らなくてレッスンに行くと大変怒られました。レッスンそのものは本当に厳しかったのですが、先生が持っていらっしゃる熱意、なんとかこの子を伸ばそうという気持ちが子供心にわかったんですね。だからいくら怒られ厳しくされても、今日のレッスンでは怒られたけれど次はもう少し頑張って褒められるようにしようとか、そういう気持ちにさせられたのは確かです。先生にはお子さんがいらっしゃらなかったので、自分たちのような若い生徒がある意味で自分の子供みたいな存在だったのかもしれないのですが、例えばクリスマスにはクリスマスパーティーのようなものをお宅で開かれて、我々と一緒に遊んだりすごく優しい面もありました。後に桐朋学園オーケストラの合宿が北軽井沢でありましたけれども、そういうときも本当にみんなと一緒になって銭回しだとか座布団取りとか一緒に遊ばれました。それも結構真剣にちゃんと遊んでくださいました。ですから本当に先生は一生懸命だなというのがすごくわたくしどもにもわかりましたから、なんとかついていったのではないかなと思っています。

――8歳でチェロに変わられて15歳でコンクールで優勝されるまでたった7年で、齋藤先生の熱意とともに堤さんは大変な努力をされたのだと思いますが。
あまり努力したつもりはないんですけれど(笑)。練習曲はドッツァウアーから始めましたが、一つずつやるのではなく結構飛ばしてやってくださいました。他の生徒さんたちにはフォルクマンとかゴルターマンとか、ロンベルクとか、エチュードコンチェルトをたくさんさせていましたが、わたくしの場合はあまりエチュードコンチェルトはやらなくて、早い時期から、ボッケリーニやサン=サーンスなどのスタンダードなレパートリーを教えてくださいました。

――エチュードコンチェルトとはどういったものですか?
ロマン派時代に生きたチェリストが自分の生徒に練習させるために書いたのだと思うのですが、すごくいい曲が多いんですよね。テクニック的には難しいものもありますが、綺麗なメロディーがあったりして、教育的には非常によくできたコンチェルトなんです。一応オケ版もできるけれども、サン=サーンスだとかハイドンのように音楽会でやるような曲ではなくて、エチュードとしての価値があるコンチェルトです。
わたくしがその後アメリカで師事したヤーノシュ・シュタルケル先生もそうなんですが、先生として優れた方の一つのやり方は、誰一人として同じようには教えていないということなんですね。齋藤先生もシュタルケル先生もお弟子さんがたくさんいましたが、もちろんある程度までは似ているところもあるけれど、わたくしにはわたくしに一番向いた方法をとられたと思うんですよね。それをすぐさま見抜かれて、そういうふうに育ててくださったというのは、私自身教える立場に立ってみてすごいことだと思います。偉い先生になればなるほど、教え方に形があるのではなくてその人その人に合った教え方をしていますよね。齋藤先生はその最たるものだったと思います。

――演奏されるときに大切にされていることは何ですか?
基本的にはより美しいものを作りたいですし、この演奏活動はある意味で一つの生きている証みたいなものだと思うんですよね。考えていることを表現してお客さんと共有したい、自分のチェロ演奏でいくらかでもみなさんに音楽のよさ、チェロのよさや楽しさをわかっていただきたいですね。例えばわたくしの音楽会にいらしたとしたら「今日は音楽会に行ってよかった」、「チェロの音色って素敵だな」とかそういうような感じを持って帰っていただきたいなと思っています。そのためには自分の主張や自分が表現したいと思ったことを十分に表現できなければいけません。そしてそのためには技術が大切なわけで、技術の習得のためには練習をたくさんしなければいけないので、わたくし自身練習嫌いでしたけれども、プロになると決心をした後はたくさん練習しました。

――演奏会に行っても、以前はこのチェリストの音色や弾き方が好きかどうかで演奏を聴いていたのですが、最近はそれだけではなくて、その方がどういう音楽をしているのかを聴きたいと思っています。『チェロを生きる』の中にもありましたが、『いい聴衆がいい奏者を育てる』という、“いい聴衆”というのはどういうものなんでしょうか。そして聴衆の反応は弾いていてわかるものなのですか?
わたくしが例えば白鳥を弾いたら「綺麗な音色だね」、「白鳥って素晴らしいね」、とそれだけではなくて「堤の白鳥はこういうふうか」、「彼はここをこういうふうな時間をとってやるのか」とか、何かそういうものを汲みとってくださって反応が返ってくると、一人の演奏家としてわたくしは大変嬉しいんです。音楽会というのは一方通行の物ではなくて、そこにいらっしゃるお客様と一緒になって、“時”と“場”を共有して何かを作りあげる、そしてそれが一つの人生の歩みとなり歴史を作っていくものだと思うんです。「今日はチェロがすごくよく鳴っていた」とか、「今日はちょっと疲れてるみたい」とか、なんでもいいんですが、そういうふうに積極的に参加してくださるお客様というのはすごく大事で、真の意味で励ましてくださることによって、演奏家としてこの次はまた一つ高いステップに上がってそれをまた聴いていただきたいなと思います。褒められるのは嬉しいけれども、時には厳しくしてくださる、ある意味でわたくしども演奏家に対してチャレンジしてくださるお客様というのは貴重な存在だと思っています。そういうふうにお客様の反応が感じられたときに「ここはこういうふうに弾いてみようかな」とか、「ここは音を少し伸ばしてこの音を強調してみよう」とかそこでまた新しいものが生まれてくるわけです。もちろん楽しんでいただくことも大事ですが、反応が深ければ深いほど、濃ければ濃いほど、弾く側にとっても、より豊かなものになります。音楽は時間芸術ですから、その“時”と“場”はもう戻ってこない。それがライブパフォーマンスというのか、レコードやYouTubeでは得られない臨場感というものなのではないかなと思います。お客様にとってある意味でYouTubeというのは非常に便利ですし、情報そのものは大事だと思いますが、それが主になってはちょっと困りますよね(笑)。生の演奏会が大事だというのは、やっぱりそこでは何かが起こるし、起こらなければ存在価値がない。そこで生まれるものがあるから、演奏会というものがずっと続いていくのだろうと思っています。最初の頃は人前で弾くというのは大変なことですし、あがったり硬くなったりいろいろあるわけです。チェロの場合はリサイタルのときは真正面を向かないといけないので、お客様の反応を肌で感じる前にお客様の顔がまずは見えてしまいます。「お客さんの顔なんかジャガイモだと思えばいいんだ」なんて言われたこともありましたが、とても私にはジャガイモの顔には見えなくて(笑)。やっぱり知っている人をみつけたり、先生の姿を捉えたら緊張します。ピアノの場合は横を向きますし、ヴァイオリンも斜めを向いていますが、チェロは真正面を向くので、逆に直接のコンタクトが生まれやすいというか、そういう意味ではやりがいがある活動をしているなと思います。

――興味を持って一生懸命聴くことはできても、積極的に“反応”するというのはなかなか難しいように感じてしまいます。
例えばアンサンブルをしていても、チェロの場合ピアニストとやったり、それから室内楽を他の楽器の方とやったりして、もちろん他の楽器の方はチェロのことなんてそんなに知らないわけだし、わたくしだってピアノの技術なんてそんなにわからないですよね。でも「ペダルをこうやった方がいいんじゃない?」とか何か感じるものがあって、ピアニストに「ここはもう少し時間を延ばしたらもっとチェロの音が伸びるんだけどな」と言うことによってピアニストもわかってくれる。それがはずれているときもあるけれど、合っている場合にはすごく喜ばれるんですよね。わたくし自身はチェロ協会というのをやっていますが、皆さんとお話していても「私はアマチュアですから」というふうに、日本ではプロとアマをけっこう区別つけてしまいますよね。でも欧米ではあまりそういう風には言わないです。もちろんプロフェッショナルというのはそれでご飯を食べているので“プロ”なんですけれども、だからといって技術的・音楽的に分け隔てはしない。ですから、チェロで生計を立てている方、別のことで生計をたてているけれどすごくチェロが好きで週末に集まってチェロを弾いている方、チェロの音楽は好きだけれど自分では弾けない方、そういう方々が集まって議論をしたりお話をしたりというように、本当にチェロ好きな方が集まるという、それ自体が大事だと思います。アメリカにはチェロ協会が全国区に20数個ありますが分け隔てなくメンバーになれますし、そういう形で交流してアマチュアでもプロから学べる人は学びます。例えば「自分は今ハイドンのC-Durのコンチェルトをやっているけど、ここはどういうフィンガリングをしたらいいのか」と聞けば、それを弾いた経験がある人が「ここは123123がいいんじゃない?」というふうに交流できていく。聞くことによってプロの人にとっても勉強になる、次のステップに向けて何をやるかとか、そういうきっかけにもなります。

――長く海外に住まわれていますが、日本と海外は音楽活動する上で何か違いはありますか?
私は50年間北米に住んでいました。その間日本にも何回も帰ってきていますので、日本からすっかり離れてしまったわけではないんですけれども。演奏のためヨーロッパをはじめ、オーストラリアとかニュージーランドとか、クラシック音楽があるところにはだいたい行きましたが、音楽というのは基本的にはそんなに違いはないと思うんですね。チェロの勉強をしようと思ったら、最初はたぶんウェルナーからやるでしょうし、そういうのもだいたい決まっています。わたくしがチェロを始めた頃はチェロの弾き方にしても“ドイツ風”とか“フランス風”とかいろいろありましたが、今はそんなことはありません。チェロのメソードがすごく進化したというか、いい先生が世界中にいらっしゃいますし、世界中でチェロのレベルはすごく高くなっています。逆に昔みたいに大きな違いというのが出にくくなって、どの国のオーケストラを聴いても、昔ほど違わなくなってしまったというようなことはあるかもしれません。チェロの演奏そのものに関しては今はある意味で一つの共通項ができていますので、基本的にはそんなに違わないけれども、土地や国の違いなどの特色はありますので、そこは大事にしていかなければいけないと思います。

――西洋の音楽を勉強する上で、日本人として苦労されたことはありますか?
私が齋藤先生に習っている頃から、例えばベートーヴェンは非常に難しいとか、年を取らないと弾けないとか、ヨーロッパの方たちからもはっきりと「シューマンはあなたたちにはわからないだろう」と言われたりしました。私が最初にヨーロッパで演奏させていただいたのは、NHK交響楽団(以下、N響)が最初に世界旅行したときにソリストとして加わらせていただいときですけれど、その時のN響に対する批評も、「素晴らしかった」とか「東洋の国でこれだけベートーヴェンやブラームスがわかっているのはすごい」とか好意的な批評もあったけれども、反面、「あれはサルまねだ」とか「本当にわかってはいないんだ」といった批判的なものもありました。厳しい世の中だなと思いましたね。それからチェロの作品で黛敏郎さんのBUNRAKUという曲がありますが、海外の人もやはり日本人の音楽家に日本の曲をやってほしいようでしたし、自分としてもブラームスやバッハだけではなくて日本の作品を演奏したい、ということでBUNRAKUをプログラムに入れ始めました。最初の頃は「東洋的ですごく面白い」と言ってくださる方もいらっしゃいましたが、「あれはノイズだ」とか、いろんな批評が出てきました。でもそれは仕方ないと思うんです。西洋音楽と言われているものはヨーロッパで育ちましたし、バッハ以前の音楽活動というのは、教会での宗教音楽かいわゆる辻音楽師みたいな世俗音楽の、2つにはっきり分かれていました。
バッハにしても教会に勤めていたわけですし、キリスト教的なものを本当にわかっていないと理解できないというようなことはありました。それはいつまで経ってもそうだと思うのですが、逆にヨーロッパの人に「日本にクラシック音楽が入ってそんなに間もないのに、世界水準の演奏ができるオーケストラになったということは素晴らしいし、ソリストも素晴らしい人がたくさん出てきている。何をしてそんなに早くクラシック音楽を受け入れることができたのか」と不思議がられたことはあります。特に第二次世界大戦後に急に伸びましたね。私がいつも説明したのは、日本には雅楽から始まって6世紀、7世紀からずっと邦楽などの音楽があって、三味線や琴、謡(うたい)といったそういうものに親しんできた土台があったから、新しいクラシック音楽というものが入ってきたときに、受け入れやすかったのではないか、ということなんです。私たちの生活の中には、例えば仏教の哲学とかいろいろなものが入っていて、我々が気付かないくらい“日本人”というものがあるわけです。それが自然に出てくるのがいいのではないかとわたくしは思います。例えば邦楽の勉強をしてもいいだろうし、能や歌舞伎を見てもいいだろうし、いろんな意味で広がれば広がるほど豊かになっていくのではないかと思っています。
チェロを勉強している人が、速いパッセージを上手に弾いたり素晴らしく美しい音で弾けても、それだけではやはりだめで、幅広く勉強しないといけない。今はいろいろな形で様々なことを学べます。幅広く勉強をするには世界史なども含まれるだろうし、いろいろな形で自分を豊かにすることによって自分の演奏の内容が豊かになって、それが日本人であれ外国人であれわかっていただける聞き手にわかっていただける。ある意味で説得力を持ったものができあがってくるということだと思います。ですからわたくしは生徒たちに、もちろんチェロの練習は大事だけれども、いろんな幅広い勉強をしないといけないということは、いつも強調していますね。
わたくしは桐朋学園という“音楽学校”に行きましたので、チェリストとして“専門的に上手になる”、ということを第一に考えていたのですが、留学した総合大学のインディアナ大学の教育の根本は、専門的にその人の才能を伸ばすのも大事だけれど、それだけではなくて、オールラウンドミュージシャンというか、音楽を通じて豊かな人間として社会に貢献できることが本物の音楽家だということで、それを聞いて少し視点が変わったような気がしました。ヨーロッパにはそれこそずっと音楽があったので、そんなことをわざわざ言わなくても皆さんの生活の中に染み込んでいるわけですが、アメリカはどちらかというとクラシック音楽後発の国ですからそういうことを言ったんだろうけれども、わたくしにとってはすごく大事なことでしたね。

――BUNRAKUは多くの方が演奏されていて難しそうな曲だなと思っていたのですが、あるとき聴いた演奏が素晴らしくて、すっと入ってきたんです。自分の中に“日本人”という部分がすごくあると感じました。
例えばわたくしの子供の頃はNHKの番組でも邦楽の時間がありましたし、そういうものにいつも慣れ親しんでいたわけです。だから“すっと入ってくる”というのは当たり前と言えば当たり前かもしれません。ただそういうふうに自分の中に日本人としていろいろな物が入っているということに気付いていないですよね。あるとき、韓国から指揮者とそのアシスタントの方が指揮科の授業風景を見てみたいと、桐朋学園にいらしたことがありました。その方は韓国人ですがアメリカで活躍されている方なので英語ができるということで、私が案内したんですけれど、その授業風景を見た後昼食をとりにお蕎麦屋さんでお蕎麦を食べました。日本のお箸は紙袋に入って出てきますよね。私がお蕎麦を食べ終わってお箸をその紙袋に入れ戻したんです。そうしたら指揮者がアシスタントに向かって、「これが日本の文化だ」と言うんです。韓国では使ったお箸はそのまま置いておくけれども、日本はこうやって入れるんだ、と。そうか、と思って私はすごく感心したんですよ。私はいつもそうしているので私にとっては自然だったんですけれども、他の国の人から見ると当たり前ではないのですよね。だから私は変に日本人演奏家として日本人らしさを強調するとかそういうことはしなくても、自分の中にあるものを表現することが一番自然で、一番大事なのではないかなと思っています。

――BUNRAKUを聴いて感動して、自分の中の“日本人”の部分を感じたというのは、裏を返すと、例えば私たちがブラームスを弾いたらドイツの方はどう思うのだろうかと思ってしまったのですが、血の違いというか人種の壁みたいなものを感じたことはありますか?
いわゆる音感覚というか、私はどなたにも才能があるしその才能が違った形で表れると思います。それと同時にどなたも自分の音を持っている。谷村先生というすごく偉い音楽学者の先生がいらしたんですけれども、「自分の音というのは自分の中から出てきているから自分の音がどういうものだろうと思ったら自分の心に聴きなさい」ということを仰いました。そういう意味で、子供の頃からブラームスやベートーヴェン、モーツァルトの音楽があふれているヨーロッパの方たちは、それが自分の音になりますよね。ですから、留学するというのはすごく大事だと思います。それがどんなものかということを会得するだけで、外国に行った価値があると思うのです。わたくしは留学して大学3年生になったときから、シュタルケル先生のアシスタントに指名されまして、先生がいらっしゃらないときは先生の代わりにわたくしが皆さんのレッスンを見ていました。先生は世界の大演奏家でしたので世界中旅行されてその間大学でレッスンができないので、アシスタントが先生の代わりを務めるわけです。日本では、ベートーヴェンやブラームスは本当に難しくて私たち日本人に西洋音楽はわからない、とずっと言われてきて、それが自分の頭の中に凝り固まってありました。シュタルケル先生のところには世界中から生徒が来ていたのですが、アシスタントになった時に、ドイツ人の生徒にブラームスの2番のソナタをレッスンしてほしいと言われて驚きました。ドイツ人の生徒が日本人にブラームスの2番のレッスンを頼むなんて、それはある意味でわたくしにとっては晴天の霹靂でしたけれども、逆に考えるとヨーロッパの方は歴史が長いだけに、観念にとらわれるのではなくて、本物を見分ける力がある。そうではない人もいますが、「彼はいいものを持っているし、彼のブラームスは何か学ぶものがある」と思ったら、何の迷いもなく門を叩いてくるわけですね。だからその辺はやはり懐が深い。日本人には絶対にブラームスなんてわからない、という頑なな方が本当は危険なんじゃないかなと思いましたね。
仏教徒にはキリスト教なんてわかるはずがない、と日本でも言われていたので「そんなものかな」と思っていましたが、そうではないということがわかって、わたくしにとっては目からうろこで、大変ありがたい発見だったと思います。
そしてシュタルケル先生に師事できたことは本当にラッキーだったと思います。シュタルケル先生がよく仰っていましたが、メソードさえよければいくつになっても上達していきます。

――演奏活動を何十年とやってこられて、始められた頃は音源もなくご苦労もあったと思いますが、今は簡単にYouTubeなどで聴ける時代になり、音楽を取り巻く環境がすごく変わったと思います。演奏活動をされる中で、奏者として昔と今とでは何か違いはありますか?
私が子供の頃は日本全体が非常に貧しかったので、楽譜も非常に手に入りにくかったですし、レコードもないですし、外国から演奏家なんてほとんど来ませんでした。でも、そういう苦労をしてでもやることが大事なわけではなくて、どれだけいろいろなものを自分の物にできるかということが大事なので、現代ならYouTubeで見るのもいいと思うんです。あの人はこういうふうに弾いているとか、ロストロポーヴィッチはこうやって弾いたけど、シュタルケルはこう弾いたんだなとかわかりますし、すごくいいと思うのですが、ただそれを真似しただけでは何にもならないんですよね。どうしてロストロポーヴィッチはいいんだろうとか、シュタルケルは面白いんだろうとか、自分なりに分析してそれを自分の中でろ過して自分のものとして、自分の色として外に出すということが大事ですし、そういう点ではいくら情報が増えたとしてもやっぱり源になるのは人間そのものですし、その人そのものです。いろんな意味でスタンダードがすごく上がっていて、今はプロオーケストラに入るのも大変ですよね。オーディションを受けに何人も来たりして本当に上手じゃないと入れない。結局今の音楽学生はどういうことをやっていかないといけないかと言うと、やっぱり自分のものを作らないといけない、誰もやらなかったようなことをやらないといけない、それは自分で作っていかないといけないんです。ですからこれからは受身の姿勢ではダメなのではないかと思いますね。演奏活動をするにしても、今までのパターン通りにやるのではなくて、例えばそこにはプログラム的な工夫も必要だろうし、アウトリーチみたいな形で小学校に行ったり病院に行ったり老人ホームに行ったり、そういう活動もすごく大事だろうし、自分で何かを切り開いていく、これはクリエイティブアクティビティというか創造活動の一つですし、それを忘れてしまうと何のためにチェロを弾いているのか、何のために音楽をやっているのかわからなくなってしまうのではないかなと思っています。
例えばドヴォルザークのコンチェルトにしてもそれこそカザルスとかいろんな人が弾いているわけですよ。ですからその人がやったような弾き方や解釈だけではいくらそれがうまくできたとしてもダメなのではないかと思っています。その人独自のものを作り上げていくというのが一番大事だと思います。

――貴重なお話をありがとうございました。

2017 年4月取材
※インタビュー内容・写真は取材当時のものです。
※プロフィールの内容は2017年4月現在のものです。
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