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伊藤 悠貴(いとう ゆうき)

category : チェロ奏者のご紹介 2018.1.26 

プロフィール

15歳からロンドン在住。2010年ブラームス国際コンクール・チェロ部門第1位、2011年英国の最高峰・ウィンザー祝祭国際弦楽コンクール第1位受賞。2018年度第17回齋藤秀雄メモリアル基金賞受賞。
これまでに、小澤征爾、V.アシュケナージ、小林研一郎らをはじめ、フィルハーモニア管弦楽団、読売日本交響楽団など国内外主要オーケストラとの共演、またロンドンのウィグモア・ホール、パリ・マリニー劇場、ニューヨークのマーキン・コンサートホールなど世界各地でのリサイタル、英国王室御前演奏、テレビ出演と、第一線で国際的な演奏活動を展開。
ラフマニノフ作品およびイギリス音楽の研究・演奏をライフワークとし、2018/2019シーズンにはウィグモア・ホールおよび紀尾井ホールにて、史上初となるオール・ラフマニノフ・プログラムによるチェロ・リサイタルを開催した。
使用楽器はMatteo Goffriller(1734年/日本ヴァイオリンより貸与)

 

掲載用

伊藤悠貴さんにインタビューさせていただきました。

――チェロを始めたきっかけは?
6歳の最後の方、ほぼ7歳の頃にチェロを始めたのですが、父がアマチュアでヴァイオリンをやっていたので、チェロを始める1年ぐらい前にヴァイオリンを始めました。ところが「自分は弾くときに立っているのに、なぜ先生は座っているんだ」と言って、すごく反抗的だったらしいんです (笑)。そんなふうなので全然やる気も出ず、両親から「そんなに立って弾くのが嫌なら座って弾ける楽器があるから」ということで、チェロを薦められて始めたんですよ。ヴァイオリンと違ってチェロはうまくフィットしました。チェリストになるというのを最終的に自分の意思で決定したのは15,6歳の頃なので、それまではチェリストになるかまだわからない状態でしたが、チェロを弾くことは楽しかったです。でもあまり練習は好きではなかったですね。コンクールの前になると6~7時間はやっていましたが、僕の周りには練習が全然嫌いではない人がたくさんいたので、僕は練習嫌いな方なのかなと思っています。

――日本のチェロ界に突然現れたような印象がありますが、日本ではいつ頃から活動されているのですか?
15歳で父の転勤に伴ってロンドンに移りました。第77回日本音楽コンクールを受けに日本には来ましたが、日本での活動は一切していませんでしたので、演奏活動という意味で本格的に始めたのが2014年です。そこからたくさんの方々にお力添えをいただいて、2015、16年ぐらいからかなり活動的になってきました。今は1年の3/4が日本で1/4がイギリスという感じです。
あまりにも日本でのブランク期間が長かったので最初は苦労しました。日本での音楽家のスタートの王道は、10代でコンクールに出て、それを機に演奏活動を展開していくという感じだと思うのですが、僕の場合は日本音楽コンクールに入賞した時は19歳でしたが「まだ日本で活動しなくていいかな」という思いがありました。ロンドンがすごく好きなのももちろんありましたが、今、コンサートを始めて忙しくなるよりは、クラシック音楽の本場のヨーロッパにずっといられるというメリットを生かしていろいろ吸収したいという思いの方がずっと強かったです。今はイギリスで勉強して吸収するということに命をかけよう、と思えていた時期でした。

――ご両親はプロにさせようと思われていたのでしょうか?
それは全くなかったみたいです。
「桐朋子供のための音楽教室」に入っていたのですが、同時期に児童劇団のオーディションを受けたんです。それは自分からやりたいと言ったらしいのですが、そのオーディションにすごくいい点で受かったんですよ。もしこの児童劇団に入ったら既にいろいろな仕事が用意されているぐらいの高得点だったらしいのですが、お稽古の日が音楽教室と同じ土曜日だったんです。両方とも他の曜日にはできないということで、その時はまだ6、7歳だったので、両親が音楽教室に行かせてようと決めて、そちらに行きました。児童劇団の方も行っていたらいろいろ面白いことができたかなと今は思いますが(笑)。

――表現していくことがお好きなんですね。
子供の頃から人前で何かを表現することは好きですね。だから、チェロを弾く上でも“表現したい”気持ちはすごく大きいです。難しいパッセージを完璧に弾くことはどうでもよくて、それよりも例えばラフマニノフの作品を弾くとなったら、彼が何を考えていたのかとか、この和声が変わるところで何を表現したかったのかとか、そういうのを自分なりの表現でお客様に伝えたいといつも考えています。
例えばラフマニノフがどういう人だったのかとか、この曲が書かれた時に彼は何をしていたかとか、その時世界では何が起きていたかとか、そういうことをまずはしっかり勉強します。曲が書かれたのが例えば1917年だったとしたら、それはちょうど彼がロシアからアメリカに亡命した年で、その頃彼は40代で何を思っていたのかとか、そういうことを本などの資料から勉強できるところまでは勉強して、そこから先は妄想ですね(笑)。
和声進行がどうなっているかを勉強することによって、音符から読み取ることはできます。例えば、「半減七(はんげんしち:和音の種類)」の和音を彼はよく使うのですが、「半減七」の和音が出てくるところは、何か特別なことを言いたいところなんです。メッセージ性のない部分で彼はその和音を絶対に使ったりしないので、それが出てくるところは必ず何かがあるんですよ。和音の中でも緊張感のある和音とそうじゃない和音とかいろいろありますが、そういうのを読み解いたり、メロディーラインでフレーズがここまでだからこの1フレーズの中でどこを歌の山にしようとか、そういう部分はもちろん楽譜から読み取ります。

――そこから、もう1歩先にいくということなんですね?
裏まで読み取ろうとはしています。僕はラフマニノフが好きで仕方がないんです(笑)。惚れこんでいます。ラフマニノフの本だったら分厚い本でもすぐに読めますよ。もう10年以上前、16,7歳くらいの時からラフマニノフにはまっています。

――ラフマニノフが好きだからロシアのダヴィド・ゲリンガスさんにつくことにしたのですか?
確実に影響していますが、ラフマニノフが好きで彼の音楽を極めたいからロシアの先生につきたい、と言ってゲリンガスについたわけではありません。ゲリンガスというチェリストとの出会いもラフマニノフ作品との出会いとほぼ同じぐらいの時期ですが、今僕がどういうチェリストであるかとか、どういう音楽を奏でるかということに、ラフマニノフを好きなことは密に関係しています。ラフマニノフが好きだからこそ今の自分があるし、2017年11月に出したCDの選曲はラフマニノフが軸になっています。僕の最初のCDは「ラフマニノフチェロ作品全集」なんですが、今回出したCDは前回のCDには入れていないラフマニノフの「夜のしじま」という曲を1曲目に入れました。「夜のしじま」以外の曲はラフマニノフではありませんが、完全にラフマニノフを軸にして考えて「夜のしじま」に合う曲を選びました。「夜のしじま」という歌をCDの最初にしている人なんて世界でたぶん僕しかいないですよ(笑)。でもすごくいい曲なんです。

――ラフマニノフにそれだけ虜になる理由は何ですか?すごく好き、という感じですか?
好きな気持ちよりもあたかも自分がこの曲を書いたのではないかと思えるくらい、曲に自分を投影できるんです。不思議な感覚ですが、好きだからとかそういう感覚ではありません。
ラフマニノフのチェロソナタを1つとっても、いろいろな背景があります。例えば2楽章の最初は電車に乗っている場面ですし、1楽章の冒頭の「レミ」と始まるところには、実はドイツ語で「warum(ヴァルーム)」という歌詞がついているんです。英語の「why」、「なぜ」という単語です。そういう逸話がいっぱいあります。それを、ラフマニノフが「ここはこういう歌詞で、こういう心境の時に書いたからそれを表現して」と共演したチェリストに直接伝えています。それがそのまま次の世代に伝わっていったそうなのですが、そこまで全部知って弾くのとそうじゃないのとでは全然違います。ラフマニノフのチェロソナタは1901年に作られたのですが、その年に彼は何をしていたのかとか、その辺りに他にどんな曲を書いていたのかとか、そこも全部調べて知った上で演奏しないといけないと思っています。そこまでよくわかって弾いているかどうかというのは演奏を聴くとわかります。ラフマニノフはメロディーが素晴らしいので、何も知らずに弾いても素晴らしいんですよ。それでも弾けてしまうと言えば弾けてしまうのですが、だから危険なんです。ゲリンガスからも「ラフマニノフは音楽がそもそもすごくいいしわかりやすいから、ただメロディーに身を任せて弾いてしまうとスカスカになるのでラフマノフは危険だ」とずっと言われていました。その“危険な演奏”が今、はびこっています。
ラフマニノフ作品を弾くための奏法もあるんですよ。言ってみれば「ロシア奏法」と言うのでしょうか、音の出し方も弓の使い方も他と全然違います。
フレージングするときに弦楽器では右手が一番大事で、ラフマニノフ作品を弾くときの弓の使い方は他と違いますね。より粘りがないといけないし、ただ音を出すのではなくて楽器の裏側から出すような感じです。それから彼の音楽はフレーズの終わりと最初がわからない、終わったと思ったら次に行っている、というような部分あるのですが、そのフレーズの終わりの部分をどう次につなげるかとか、彼の音楽の持って行き方は独特なものがいっぱいあるので、そこをしっかり理解して弾くと本当に彼の音楽になるんです。

――聴きにいく我々は、それぞれの奏者がどこまで勉強して弾いているかとか、そこまでわからないのですが。
それをお客様は知る必要はないと思います。いろいろな媒体やメディアを通じて、「ああ、いいなあ」と思っていただけるように、色々頑張っています。
そういう理由でラフマニノフのチェロ作品全集を最初に出したのですが、そもそもラフマニノフチェロ作品全集のCDを出している人なんて世界でも5人くらいしかいないんですよ。なので、そういうところを通じて「このラフマニノフを聴けばチェロのラフマニノフがわかる」と思ってもらえればいいなと思って、いろいろなところでラフマニノフを取り上げるし、テレビで放映されるリサイタルだったらラフマニノフは必ず入れるし、CDでもラフマニノフを推すし、僕ができることをできるだけやる。できるだけ本物のラフマニノフを届けたいという思いしかなくて、僕の演奏を聴いてほしい、というのではないです。ラフマニノフは本当に僕にとって一番大事な作曲家なので、これからもCDなどを通していろいろな形で広めていけたらいいなと思っています。

――今まで、イギリスに渡られたり、ゲリンガスに出会ったり、コンクールに出たり、いろいろなことがあったと思いますが、音楽家として転機になった出来事はありますか?
最初の転機はロンドンに移った時です。ロンドンに行くまではコンクールを受けたり勉強したりいろいろとやってはいましたが、チェリストになるということを自分自身で言い切れていませんでした。それがロンドンに移ってヨーロッパの空気を吸って、ゲリンガスと出会い、ラフマニノフ作品と出会ったことで、チェリストとして生きていくということにすごく希望が持てたんです。渡英は、父の転勤が理由で僕の意志で行ったわけではないのですが、渡英したことは僕にとって100%よかったなと思います。
ゲリンガスの他に僕がものすごく尊敬している音楽家でウラジミール・アシュケナージがいますが、アシュケナージとの出会いと共演は第2の転機といっても過言ではありません。ラフマニノフをものすごく好きになった理由の1つでもあります。彼はピアノでラフマニノフをよく弾くのですが、その演奏にすごく惹かれました。ラフマニノフのオーケストラ作品も世界一だと思っていますが、ピアノ色が強い作品が一番好きで、それはアシュケナージの演奏との出会いがあったからだと思います。アシュケナージは僕にとっては本当に憧れの存在なんです。2012年にアシュケナージとラフマニノフのソナタを共演する機会があり、その経験ができたことでこれからチェリストとしてやっていく覚悟が決まり、この演奏ができたなら大丈夫だという自信がもてるようになりました。

――チェリストとして生きていくかを決めるか決めないかの時に、ヨーロッパという本場に行くということに戸惑いはなかったですか?言葉の壁ももちろんですが、クラシックという世界で苦労はなかったですか?
中学3年生、15歳でいきなりロンドンに行って、周りにいる人は誰も知らないし、その時は英語が得意な方ではなかったので、最初は大変でしたね。英語は、すごく分厚い辞書の単語を全部書き出して、それを3周したらすごい語彙力になりました。英語を使わないといけない状況になったからこそやったのですが、あれはなかなかいい勉強法だったと思います。集中力は結構ある方かなと思います。
でも、英語をはじめいろいろな問題があった中で、チェロが弾けたからこそ最初から“除け者”にされずにすんだというのはあったと思います。ヨーロッパの方たちは芸術的なことに関わる才能をものすごく重んじるので、最初から「あいつは全然英語が喋れないし何を言っているのかわからないけど、チェロはちゃんと弾くな」という感じで一目置いてもらえました。そういう状況の中で勉強をしてどんどん喋れるようになって交流ができるようになってきたんです。馬鹿にされない才能とか技術があったというのは大きいと思っています。

――イギリスでオーケストラを作られて芸術監督になっていらっしゃるそうですが、それはどういういきさつで作られたのですか?
ゲリンガスもアシュケナージも、それぞれチェリストとピアニストというソリストでありながら指揮もするんです。ゲリンガスとアシュケナージから「指揮を今のうちにちゃんと勉強した方がいい、若い時に指揮の勉強をやっておけば必ず役に立つ」言われたんです。彼らは指揮を始めたのが遅いんですよ。
元々交響曲とかオーケストラの作品もすごく好きで、ラフマニノフの他にも僕が好きな作曲家はオーケストラ作品が素晴らしい人が多くて、例えばエルガーとかドヴォルザーク、ワーグナー、シュトラウス、マーラーですが、ワーグナーはオーケストラというかオペラですが、彼らはオーケストラ作品の作曲家ですよね。その中で「指揮の勉強をした方がいい」という意見をもらって、自分も勉強をしてみようと思ったんです。元々勉強することはすごく好きなので、やっていくうちに面白いと思うようになって定期的にできたらいいなと思いました。僕が行っていたロンドンの大学はそういう活動をすごくサポートしてくれるので、例えばその時に学生だった人を集めて1~2ヶ月に1回ぐらい指揮の講座やコンサートをやってみたりとか、そこが元となって一緒にオーケストラをやろうよと言ってくれた子が何人かいたのでその子たちをメインメンバーとして2013年にオーケストラを作りました。

――ロストロポーヴィチなど器楽のソリストで指揮をされる方はいらっしゃいますが、指揮をするのは器楽をある程度やった後というイメージだったので、チェリストとしてこれからという時に指揮もやるというのは驚きました。
1つのことだけを熱心にやるのもいいのですが、チェロを弾くということを生かして他のこともできないかなといつも思っています。もちろん僕にとって“第1職業”はチェリストなので、「チェリストとしてこれだけできるからこそ他の活動もしている」というふうに思われるように、チェリストとして最高水準の音楽を皆さんに届けていくということを第1の仕事としてやっていますが、チェリストとしてだけで終わりたくないというか(笑)、音楽に携わる以上チェロを弾くこと以外に、指揮や編曲、他にも例えば音楽系のラジオのプレゼンターなど、音楽家ということを生かしてできることはできるだけやりたいなと思っています。ラジオも結構好きで、最近ありがたいことにラジオのレギュラーパーソナリティのお話もいただいています。
それから、指揮者としてもやっていきたいです。オーケストラのコンサートの前半でコンチェルトを弾き振りして、後半で交響曲を振れるチェリストって一人もいないんですよ。これから活動していく上で焦りは一切ないですし、これからもゆっくりやっていこうと思っていますが、最近地盤が固まってきたので、その中でオーケストラのコンサートを指揮者なしでこなせるチェリストとして活動していけたらいいなと思っています。
興味があるのにやらないというのは、「なんでやらないの?」と思ってしまうんですよ。興味があって、そしてやりたい思いがあって、さらにやれる力量があるのであれば、やらないで人生終わるのはもったいないですよね。なので、フットワークは軽く、できることはできるだけやった方がいいと思っています。

――普段はチェロを弾く以外に何をされていますか?
趣味がないので、チェロを弾いていない時はいろいろな作曲家の今まで知らなかった曲を発掘しようとか、そんなことを考えています(笑)。20代前半ぐらいまでは練習していない時は音楽以外のことを考えたいと思って、音楽と全然関係のない友達と会って飲んだりしていましたが、最近は全てが音楽と結びついてしまっていますね。以前は1日5時間練習するとしたら、その時だけ集中して他の時間は音楽のことを考えないようにしないとやっていけない、というぐらいに思っていたのですが、今は全然そんなことはないです。

――アマチュアオーケストラを指揮されたり、指導に行かれたりもするのですか?
アマチュアの音楽家の方と関わる時間はすごく好きです。
アマチュアオーケストラを指揮するのがすごく楽しいということは、今年の新しい発見でした。今までオーケストラとの仕事の付き合いというのは、ソリストとしてコンチェルトを弾くということしかなかったので、指揮者としてオーケストラと向き合って、何回もリハーサルをして本番で一番いいものを出すというのは初めての経験でした。すごく楽しかったですし、プロの演奏会では感じないものを感じました。
音楽家というのは、音楽を奏でてそれをお客さんに届けるということが仕事ですが、仕事にしてしまうと演奏する時に本来持っていないといけないものが100%ではなくなってしまう瞬間があります。僕はできるだけそれをなくしたい。音楽を演奏してご飯を食べている、ということをできるだけ忘れたいんです。だから演奏会の前は、「この音楽がありとあらゆる雑念から解き放たれますように」というのをいつも思っています。雑念があるとダメなんです。

――アマチュアは毎回の演奏会が必死です。
1回1回にかけるのがいいと思います。音楽のあるべき姿だと思うし、何かのために音楽をやるというのがそれこそ雑念だと思います。何のためでもないのにやる、というそれが一番大事だと思います。それはプロに求めようとしてもどうしても無理なものがあって、プロはやっぱり音楽をやることによってご飯を食べないといけないので、アマチュアにしか表現できないことだと思います。だから、アマチュアオーケストラの存在ってすごく大きいと思います。音楽家が音楽をやっているのは当たり前ですから。そうやって、音楽家ではない方でも意欲をもって音楽に携わっている方はすごく尊敬します。音楽の発展とか、その地域へのクラシック音楽のさらなる普及にも繋がると思います。

――音楽って何でしょうか?
僕にとっての音楽は、「人間がよい人間として生きていく上で忘れてはいけないもの」を取り戻させてくれる存在です。嫌なニュースを見たりするとすごく嫌な気持ちになったり、いたたまれない気持ちになりますが、そういう中で音楽を聴いたり弾いたりすると、「人間として忘れてはいけない心」がふっと戻ってくる感じがします。負の感情を浄化してくれる力を持っていると思うんです。僕は、曲を作ることはできないので、弾くことしかできませんが、音楽の持っている力は本当にすごいなと思います。

――曲を作りたいとは思いますか?
もちろん作曲したい気持ちはあるのですが、作曲は本当に才能がないんですよ(笑)。大学の授業で編曲を学ぶときに作曲の技術も学びました。編曲は才能があると言われたのですが、作曲は全然ダメでした。曲を書いても全然素晴らしくないし、ちゃんとした音楽にならないんですよ。「自分って残念だな」と思うほどです(笑)。音楽は弾いてくれる人がいて初めて成り立つので、演奏してくれる人がいない曲だったら存在する意味がないんです。だからすぱっと諦めようと思っています。だらだらやったりはしません。
ロストロポーヴィチは作曲もしていて、おそらく一番有名なOp.5の「ユーモレスク」はすごく難しい曲ですがいい曲です。ロストロポーヴィチは作曲もできたわけですから本当にすごいです。

――様々な活動をされる中で、ここだけは譲れない、というような核になっている部分はありますか?
2つあります。
1つは、ラフマニノフのスペシャリストとしてチェロで弾ける編曲ものをもっと増やすことです。ラフマニノフの曲でオリジナルがチェロではない曲もたくさん演奏していますが、チェロで弾いたときにいい曲があるんですよね。「ラフマニノフのチェロで弾ける作品に関しては日本だったら伊藤悠貴が第一人者だ」という勢いでやっています。
もう1つは、日本とイギリスの音楽的な架け橋になりたいというのを10年以上前から思っていて、イギリス人作曲家の曲で日本ではあまり弾かれない知られざる名曲みたいなものをラフマニノフの作品と並行してコンサートの中にもできるだけ入れるようにしています。ディーリアスやブリッジ、アイアランドなどは、日本でまず聴くことはできない作品だと思いますが、とても素晴らしい曲なんですよ。こういうイギリスの作品を日本で広めていくというのも僕の使命だと思ってやっています。
「チェリスト伊藤悠貴って何する人?」というふうにもし質問されたら、この2つを真っ先に答えると思います。これらは僕の存在意義ですし、他のチェリストにできない、他のチェリストがやらないこと。日本人はすごく優秀なので、素晴らしい音楽家は本当にいっぱいいるんですよ。その中で自分じゃないとできないことがやれないとダメだと思っています。この人が演奏するんだったら聴きに行こうとか、この人がラフマニノフをやるんだったら聴きたいとか、できるだけたくさんの方に思ってもらえるようにこれからも活動していきたいと思っています。

――これからこういうことをやりたいとか、目標はありますか?
いろいろありますが、やりたいことは出尽くしているので、これからはそれを極めていこうと思っています。具体的に言うと、チェロの曲はヴァイオリンやピアノに比べれば少ないので、まずはチェリストとしてメジャーレパートリーは全部網羅することと、日本とイギリスのかけ橋的な存在として活動することです。それから、ラフマニノフの作品を全部知りたいですね。ラフマニノフはベートーヴェンやハイドン、モーツァルトに比べるとそんなに曲数が多くなくて、作品番号だけでいうと45までしかないですし、作品番号がついていない曲を入れてもそれほど多くないので、全部知ることは不可能ではないと思っています。

――貴重なお話をありがとうございました。

2017 年11月取材
※インタビュー内容・写真は取材当時のものです。
※プロフィールの内容は2019年4月現在のものです。
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