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原田 禎夫(はらだ さだお)

category : チェロ奏者のご紹介 2014.10.31 

プロフィール

NHK交響楽団のチェロ奏者だった父から手ほどきを受けた後、斎藤秀雄氏に師事。桐朋学園大学卒業。東京交響楽団の最年少首席チェリストを務めた後ジュリアード音楽院に入学、クラウス・アダムス、ロバート・マン、ラファエル・ヒリヤー各氏に師事し室内楽の研鑽を積んだ。東京クヮルテットを結成し、ミュンヘン国際音楽コンクールなどで圧倒的な優勝を飾り世界の注目を浴びた。ミラノ・スカラ座、アムステルダム・コンセルトヘボウ、ニューヨーク・カーネギーホールなど世界の一流の舞台でベートーヴェン・チクルスなどの名演を残し、録音でも数多くの賞に輝いた。1999年に30年間在籍した東京クヮルテットを離れ、ソリストとしてはNHK交響楽団(指揮:準メルクル)、新日本フィル(指揮:小澤征爾)、札幌交響楽団などと共演。室内楽では、ロバート・マン、アルバン・ベルク弦楽四重奏団、ジュリアード弦楽四重奏団、上海クァルテット、ジェシー・ノーマン、ピンカス・ズッカーマン、アイザック・スターンなどと共演。その他、サイトウ・キネン・オーケストラなどに定期的に出演。現在は水戸室内管弦楽団のメンバーを務める他、2006年に結成したアミーチ・クヮルテットとして、日本各地、アムステルダム・コンセルトヘボウ、イタリアやドイツ各地、アメリカ・ワシントンDCなどで演奏、室内楽講習会を続ける。また後進の育成にも大きな情熱を注ぎ、小澤国際室内楽アカデミー奥志賀、プロジェクトQ、スイス国際ミュージックアカデミー、タングルウッド音楽祭室内楽マスタークラス、北京室内楽講習会など数々の講習会や音楽祭で若い音楽家たちを指導している。アメリカ・イェール大学音楽学部教授、ドイツ・トロッシンゲン国立音楽大学教授を経て、現在は上野学園大学音楽学部教授を務める。

原田禎夫さん 掲載用

原田禎夫さんにインタビューさせていただきました。

--チェロを始めたきっかけはなんだったのですか?
NHK交響楽団(以下、N響)のチェロ弾きだった父が、たぶんチェロをやらせたかったんだと思うんだけど、最初兄貴と僕はヴァイオリンを持たされたんだよ。僕が小学校3年か4年生くらいの時。でも兄貴は最初から嫌だとはっきり言って、結局今は版画家なんだけど、僕は嫌だとは思わなかったんだよね。ただヴァイオリンは本当に嫌だった。今は子供用の小さいチェロがあるけど僕たちの時代は1/2サイズからしかなかった。僕は小さかったからまだそのチェロも持てないし、だから父としてはたぶんもうちょっと大きくなるまで他の弦楽器で馴染ませようと思ったらしい。
夏休み最後の8月31日に父が釣りに行くので一緒に行かないかと誘われたんだけど、兄貴と僕は夏休みの宿題をやっていないから行けなくて、退屈して部屋で相撲をとっていたら僕は左腕を骨折した。その頃父の友達のN響のコンサートマスターをやっていた方にヴァイオリンを習っていて、そろそろチェロに変えようと思っていたんだけど、ヴァイオリンを辞めますって言いづらいでしょ。それで父もちょうどいい機会だと思ったらしいんだよ。骨折してヴァイオリンの構えができないからってそれを理由に辞めたんだよ。僕もヴァイオリンは本当に嫌いだったからほっとしたわけ。
それで父としてはチェロを習うなら斎藤秀雄先生(日本のチェロ奏者、指揮者。また音楽教育者であり、桐朋学園の創始者のひとり。以下、斎藤先生)に、っていうことで斎藤先生のところに行ったんだよ。最初から斎藤先生は怖いなと思った。

--斎藤先生のレッスンで記憶に残るものはありますか?
レッスンがものすごく嫌で嫌で仕方なくて、とにかくレッスンがなくなればいいなと思っていたんだよ。半蔵門から千鳥ヶ淵まで歩いてレッスンに通っていたんだけど、途中で転んでチェロがひっくり返って指板がはがれた。これでレッスンはできないと思って先生のところ行ったら、ご飯粒かなんかで一生懸命指板を付けようとして。それはちょっと衝撃的だった。あれが一番強烈な印象。
レッスンでいうと、子供心に「そこまでやるのか」っていうぐらい手の形とか徹底してやらされた。弦を押さえる指は、人差し指から小指まで間隔を均等にしなさいということで、丸い棒に釘を等間隔に打ったものを父に作らせて、そこに指を当てるというのをずっとやらされていたよ。その形ができていないと弓でピシッと叩かれたりするんだけど、これが本当に痛いんだよ。だから“厳しさ”っていうのはレッスンの思い出だよね。その厳しさっていうのがどこから来ているのか、愛情からきているのか、本当に憎たらしくてきているのかっていうのが子供の時は全然わからなかったから、すごくつらい思い出だったのね、ずっと。

--『斎藤先生のチェロ教育』という、斎藤先生について書かれた本を読んだのですが、本の中で皆さん本当に怖かったと仰っていました。
とにかくまず怖いんだよね。1週間である程度のことをきちんとやってこないとものすごく怒られるし、レッスンにあんまり早く行きすぎても怒られるし、遅れたらとんでもない話だし。厳しい人だった。朝9時のレッスンだと、前日の夜は緊張して寝られない。今の時代だったらたぶんみんな辞めてるんじゃないかな。僕は斎藤先生に褒められたことがないから、本当に。コンクールで1位になっても、何をやっても褒めてくれないんだから。後にアメリカに行って、クラウス・アダムさんという昔のジュリアードカルテットでチェロを弾いていた方に習ったんだけど、演奏をすごくいいと言われても信じられないわけ。最初は「この先生はダメだ」と思ったぐらい、斎藤先生のやり方とは全く違うんだよね。
だけど今になってみると斎藤先生には本当に感謝しているよ。やっぱりあのレッスンがなかったら、ここまで弾いてこられなかったと思う。彼の厳しさとか、彼なりのメソードっていうのか、基礎をすごくしっかりやる人だった。その基礎がちゃんとあるから、今ちゃんと弾ける。とにかく土台を作るっていう作業はすごかったよね。家を作るのだって土台がちゃんとしてなきゃ崩れるのと同じことで。今そこまでやる先生はいないからね。子供もなかなかついてこないかもしれないけど。

-斎藤先生は非常に厳しく、原田さんはステージフライト(舞台恐怖症)になったとのことですが?
そう、僕はそれですごく苦労したのね。いじめられたっていうと語弊があるけど、斎藤先生の生徒の中にもいろんな生徒がいて、やっぱり僕はかなりいじめられた方なんだよね。アメリカに行ってステージフライトになって心理学者みたいな人のところに行っていろいろ分析したんだけど、そうしたらやっぱり斎藤先生にきつく言われたことが原因だと。そういう研究って言うのはあんまり日本では進んでいない。

--日本だとまだ隠す傾向にありますよね・・・。
そうそう、もう少し早くからケアすれば鬱にならずにすむ。だけど日本って未だに、隠す。全然恥ずかしいことではないんだよ。みんな問題を抱えているんだから。ないふりしてみんなやっているけど。
その心理学者みたいな人のところではどういうことをやるかというと、イスに座って“どうして斎藤先生はあの時ああいうことを言ったのか”を、斎藤先生がそこにいるつもりで一方的に問いかけていく。その時はそれだけで終わるんだけど何回かやっているうちに、腹が立って来る時もあるわけ。“あの時、ああ言われて僕はすごく傷ついた”とか。それである日突然今度は斎藤先生になった気持ちでそれに答えなさいって。面白かったよ、あのセッションはね。それに助けられた。

--それをやると斎藤先生がどういう気持ちだったかわかるのですか?
そうそう。ああいうセッションをすると“そう言われれば僕はやっぱり怠け者だし、少し厳しくしなきゃいけないんだ”とか“褒めたら増長するんじゃないか“とか、そういうことを自分の中で思い浮かべる。だんだんそれをやっているうちに、許せてくるんだよね。その時になって初めて、斎藤先生が今生きていれば話したいと思った。それまでは話す気もしなかったから。

--東京クヮルテットでご活躍でしたが、カルテットをやられていて、苦労したことはありますか?
いきなりコンクールで優勝して、それから次の年くらいから演奏会がものすごく増えてきた。その頃はまだペースが分からない。60日ぐらいで45回も演奏するようなめちゃくちゃな数のコンサートがあったんだけど、その時は本当にきつかった。その頃はまだ始めたばっかりだから、練習もすごくするわけよ。現地に着いてからホテルで練習したり。それは大変だったけど鍛えられたことは鍛えられたね。

--カルテットをやられたのは、やはり純粋な探究心からですか?
僕の場合は父がN響の人たちと家でカルテットをやっていたから、その影響がある。やっぱりカルテットという音の響きにすごく憧れたっていうのかな。それと、ソロで弾くのが僕はすごく嫌だった。1人で弾くのがすごく虚しかったわけ。今でもそうなんだけどやっぱりソロで弾く人ってもちろんうまくなきゃいけないけど、もうひとつには“自分を見せる”というような特別な神経を持ってなきゃいけないわけ。僕には絶対できないからね。やっぱりそういう性格的なものって絶対ある。

--カルテットの一番の醍醐味はなんですか?
やっぱりハーモニー感っていうのかな、4つの楽器の音程がぴったり合った時に素晴らしい音がするんだよ。音程がちょっとでも悪いとそういう響きはしない。あと弾き方ね。どういう弾き方をするか、1人は弓が速くて、1人は遅かったらダメだから。4人が1つの楽器として弾くみたいなね。そうするとそんなに頑張らなくても素晴らしい響きがする。僕があんまり好きじゃないのは、1人1人が弾いているだけで4人が集まっていないカルテット。それではカルテットの響きがしないんだよ。だから声部がよく聞こえるとかテクニックがすごくできているとか、それは僕には全く興味ないわけよ。東京クヮルテットでよく言われたのは、1つの楽器みたいだって、目をつぶっていると誰が弾いているかわからないって、やっぱりそれが醍醐味なんだよ。1人1人が目立っちゃいけない。もちろん1stヴァイオリンはメロディがあったりそういうところは別だけど、4人が1つの楽器みたいになる。それを作り上げていくのはものすごくつらい作業だし、やっぱり喧嘩もする。みんなアイディアも違うし。だからまずひとつにお互い尊敬しなきゃいけない。そうやって作り上げていく作業が、僕には醍醐味なんだよね。

--“1つの楽器にする作業”というのはどうやるのですか?
昔のジュリアードカルテットが本当にすごいグループで、ただ縦の線を合わせるだけ(皆の音をきっちり揃えること)っていう作業じゃないんだけど、本当によく合う。そういうのを彼らから徹底して習った。弓のスピードとか。今の子はまず弓のスピードが速すぎるんだよ。カルテットというのは、弓なんて長さは要らない。ソロで弾くと先生が「もっと弓を使って」とか言っているけど、カルテットはその逆で“いかに言葉として音を出すか”っていうことが大事。すごく難しいんだよ。だから音のひとつひとつがきちんと全部聴こえるように徹底してやらされた。それこそ極端に言うとヴィヴラートの幅まで合わせるっていうね。1人が速いヴィヴラートで、1人はゆっくりで、1人はノンヴィヴラートじゃ、絶対響かない。音楽の場所によって、緊張感のあるところは少し速くしたり、ゆったりしたところは少しゆっくりするとか。いろんなテクニックを要求されてくるんだよね。だからすごく勉強になった。少しずつ少しずつ4人で言い合いながらやっていくんだから。そうするとできなかったことができるようになる。本当に4人のバランスが合った時は音の響きがすごいんだよ。
僕たちがラッキーだったのは、教わるのはジュリアードカルテットと決めて、彼らにしか習わなかったから。僕たちは先生に恵まれていた。
最初はすごく貧乏していたけど、別にそれが苦痛でもなんでもなくて、そういうものだと思ってやっていた。結果として少しずつコンサートが増えたりして、なんとか生活ができるようになってきた。中には不安に思ったメンバーもいると思うけど、当時は割とただカルテットをやりたいっていう気持ちでやっていたね。
今はそういう土壌がない、カルテットを育てようっていう学校がない。アメリカの場合はレジデンスカルテットと言って、学校がカルテットを雇ってある程度の生活を保障しながらカルテットを育てていくんだけど、そういうシステムが日本にはない。日本でカルテットをやろうっていうのは本当に困難だよ。だからなかなか東京カルテットの後に日本のカルテットが出て来ないんだよ。

--やるなら海外に行かなければ?
そう、そういう機関があるところね。確かに日本にカルテットはたくさんあるけど、それだけで飯を食って世界中歩くっていうグループはないんだよ。それにみんな安易にカルテットをやってすぐメンバーチェンジしたりするけど、そういうものじゃないんだよね。やっぱり熟成みたいなものがあるから、なるべく同じメンバーと一緒に育っていくっていうのがないと。まあ東京クヮルテットは最終的にはずいぶん変わちゃったけどね。ちょっと変わりすぎたよね。あそこまで変わっちゃうと最初のキャラクターっていうのが全くなくなっちゃったから。

--練習と言うのは、1小節進んでその音、みたいなピンポイント的にやるのですか?
もちろん、やる。だからそれはやっぱりカルテットじゃなきゃできない。しかも職業として、毎日嫌だけど顔付き合わせてやらなきゃできない。本当にやろうとしたら、そのぐらいの覚悟でやらなきゃできないよ。

--カルテットを辞められる時は、いろいろな思いがあって辞められたのですか?
ピーター・ウンジャン(元東京クヮルテットの1stヴァイオリン奏者)が弾けなくなって次のヴァイオリン弾きを結構焦って入れたんだよね。それがよくなかったんだけど、僕はスタイルにすごくこだわっていたから、東京クヮルテットのスタイルはなくしたくなかった。僕には東京クヮルテットのスタイルやサウンドを作り上げたっていうプライドがあって、でもメンバーが変わってそれがなくなってしまった。すごく弾けるヴァイオリン弾きだったけどスタンスが全然違った。だから僕は2人の日本人のメンバーに相談して、もう1回きちんとオーディションをし直して、作り直さなきゃいけないと言ったんだけど、話はまとまらなかった。名前だけでカルテットを続けていくのは絶対嫌だったから。その人が悪いわけじゃないんだけど、やっぱりバックグラウンドが全然違ったから。その状態で音楽会を年間に百何十回もやるっていうのはやっぱりきついじゃない。僕にはとにかく耐えられなかった。ただ辞める時はすごく不安だったよね。自分に何ができるか、辞めても飯が食えるかってそこまで考えたから。だけど、とにかくこのままやってちゃいけないっていうのがすごくあった。

--次の若い世代への願いみたいなものはありますか?
今の若い子は生活の安全というのか、結構優秀でもっといろいろ挑戦すれば良いのに、と思うような子でもとにかくすぐに日本でオーケストラに入っちゃったりする。僕たちの時代はオーケストラに入るっていうのは最後に考えていたんだよね。やっぱりやりたいことだけはとにかくやってからって。まあだけど、今は競争が激しいから仕事はとにかく取っちゃわないと、後で取ろうと思ってももう取れない。それは大変なことなんだけど、でも人生って1回きりだから本当に何か自分がやりたいことがあったらまずやってみることなんだよね。そうしたら道はどこかで開けてくる時もあるんだよ。だから若い時にそういうチャンスがあったら、何も外国に行ったからうまくなるとかそういうことじゃなくて、いろんな人に会ったりいろんな経験をしたり、言葉を学んだり、文化を知ることもそう。そこで、いろんなことを考えることができるじゃない。特に西洋音楽をやるのならとにかく外に出て、チャレンジする。昔はそういう人がいたじゃない。小澤さん(指揮者の小澤征爾さん)だってスクーター1つで飛び出して行ったし。
やっぱり農耕民族だから、「隣の人が何の種を植えているだろう」って、そういうことばっかり気になって、同じようにしていないと不安なわけ。だから日本人ってどうしてもそこから抜け切れていない。
覇気のなさというか自分を表現することができない人は、本当は西洋音楽をやっていたらだめなんだよ。なんとなくみんな長いものに巻かれて。「しょうがないじゃん」ってそれで終わっちゃうわけ。そうじゃなくて、これから特に西洋音楽をやる子は自分の主義とか主張とかはっきり言えないと全然音楽にも出てこないんだよ。ベートーヴェンなんか葛藤がある音楽で、ある時は子供みたいな世界を作り上げたりある時は本当に怒ってる。屈折しているんだよね。でもあの人ってそういう人生だから音楽にそのまま出ているんだけど、自分でそういうことを感じなきゃ音楽にも出てくるわけがないんだよ。音楽って決してきれいなものばっかりじゃないから、自分で実際に見て絶えず感じていないと。今、ひとつにはCDとかYouTubeとかああいう薄っぺらい音でみんな聴く。だから演奏も奥行きがないんだよ。何でも簡単に手に入るけど、割とインフォメーション的な演奏なんだよね。そこに人生の葛藤とか全くない。100人も奏者がいたら縦の線なんか合わなくても、音の1つのうねりみたいなものがあればいいんだよ。作曲家もそんなことを考えて曲を書いていない。

--アマチュアは縦の線をすごく気にします・・・。
アマチュアっていうけど、アマチュアはエネルギーがあるよ。それってね、伝わってくる。カルテットでもそうなんだけど、講習会をやると演奏技術がピンからキリまでの生徒がいるわけだよね。こちらが一番心配して一生懸命エネルギーを使って、そして生徒も必死になって勉強しているのは“キリ”の子たち。それで結局僕が感激して涙を流すのはその子たちの演奏だったりするわけ。訴えてくるものがあるんだよ。音楽ってそういうものだと思うんだよね。うまいグループって言うのはよく弾いているんだけど、何も感じないっていうか。そういう経験を何回もしている。だから必ずしもきちんと音が全部揃ったからって、それに感銘を受けるかっていうとそうでもない。ただ最近は聴衆も、「ああ素晴らしい、よく弾く。CDみたいだ」っていうのが多いよね。「CDみたい」なんて褒められたら僕は逆に侮辱だと思う。

--今はドイツにお住まいですが、どういう生活をされているのですか?
日本でやる仕事が多くて、日本とドイツが半分半分ぐらいになっちゃってる。日本ほどはいろんなことはやっていないけど、ドイツでは小さな音楽会や室内楽をやっているよ。ただ僕はドイツにいると自分を取り戻せるっていうか、勉強するのにすごくいい。日本では勉強しようと思ってもできない。日本のこのうるささで落ち着いて物を考えられない。外に出ればもううるさいし。駅では「白線の内側に下がれ」とか、「エレベーターは手すりにつかまれ」とか、子供と同じだよ。赤ん坊じゃないんだからほっといてくれよ、って思う(笑)。ドイツは個人の責任だから、電車が入ってきた時にホームのギリギリを歩いていたらこっちが悪いし、子供がいれば大人がちゃんと手をつなげばいいんだよ。全部幼児化しているような世界だね、日本は。

--ドイツには何年ぐらい住んでいらっしゃるのですか?
ドイツはまだ13年ぐらい、その前にアメリカに35年かな。アメリカの方が長いからニューヨークに行く方が自分のところに帰ってきたような感じにはなる。ヨーロッパには前から住んでみたかったからカルテットを辞めた時にこれはいい機会だなと思って。経験としてもすごくいいと思う。気候を実際に肌で感じて「なるほどシューマンがこういう曲書くのはよく分かる」とか。やっぱり冬の暗さから春になった時の本当にきれいな感じは、素晴らしいよね。やっぱり西洋音楽っていうのはこういうところから来たんだとか感じる。実家は東京だけど家はもう無いし、東京があまりにも変わり過ぎちゃって昔の面影を残していないから、自分の故郷っていう感じがしないんだよ。

--これからやってみたいことはありますか?
音楽に関してはもういいや(笑)。カルテットも本当に精一杯やったし、その後辞めてからもずいぶんいろんな事をやらせてもらった。だけど最近は日本での仕事の比重が増えてきて、いまだに声をかけてもらえるんだからありがたい事なんだけど、今までずっとアメリカやヨーロッパとか世界中でやってきたこととのギャップが辛くなってきているし、そこにしがみついているうちによろよろになってパタッと(笑)、というのもね。
絵を描きたいんだよ。それもある程度元気のあるうちに。一時期スケッチブックを持って、旅行中にちょっと描いていたよ。それって人に見せるものじゃないから下手でもいいわけだよ。絵は自分で楽しめる。だけど演奏は人に聴かせないといけない。油絵もいつかやってみたいと思っていたから、それには体力、時間がないとできない。僕の母の系統の祖先の1人が昔絵描きで、襖絵とか描いていたんだよ。上田城なんかにまだ残っているよ。母の系統はどちらかというと絵で、母も絵が好きだった。だから僕も絵にはすごく興味ある。外国に行くとよく美術館とか見に行くけどやっぱり描きたいなと思う。だからチェロを辞めてそれでいいかなと思っていて(笑)。

--チェロを辞められるということは視野に入っているんですか?
入ってるよ。人間ってどこかで必ず落ちていくわけじゃない。年齢もあるし。その時にまだそれを引きずってずっとやっているのは絶対嫌だったんだよ。美学として僕は惜しまれて辞めたい。僕なんて辞めたって惜しまれるも何もないんだけど、カルテットの場合まだあれだけ弾けたのにもったいない、っていうっていうところで辞めたいというのは自分の気持ちの中にあった。個人でも、まだいろんな仕事を頼まれたりして頼まれるだけ幸せだけど、それがだんだん少なくなって、落ち切る前に辞めたい。そうなったら楽器も手放すつもりだしね。

--でも、チェロを手放すというのは勇気がいりませんか?
前は想像もつかなかった。だけどね、やっぱりこの年になって考えるとチェロ自体に歴史があるわけだ。僕の楽器は1743年にガダニーニが3台目として作った楽器なんだよね。本にも出ているんだけど、まずハンガリーの貴族のところに行った。そこから転々としてアメリカのシルベスターっていうチェロ弾きが使っていたんだけど、彼は肩を痛めて結局どこかの学長になってしまってチェロを売ったんだよ。そこでたまたま僕が巡り合ったわけよ。そうやっていろんな歴史がある。そこまで辿り着いて僕のところまで来て。だからどこかでいずれ他の人のところに行くっていうのは自然の成り行きかなと思い始めたんだよね。もちろん墓場まで持って行くわけにはいかないし。すごい楽器だよ。本当に良い楽器。突然出会ってとにかく惚れて、すごい借金して無理して買ったんだよ。将来の価値とか、その時は考えなかった。だけど売ったら、ちゃんとした人が弾いてくれるといいなとか、弾ける人が弾いてくれたらいいなとかは思うよね。僕は辞めるとなったら音楽っていうものからバッと手を引きたいんだよ。教えるのから弾くのから何から。それで僕がどこにいるのかみんなわからないっていう、そういう世界になりたい。チェロの場合、辞めたら1人でバッハ弾いていたらって、それも虚しいんだよ。

--原田さんにとって音楽とはどういうものなんですか?
音楽は好きだね。でもマニアックではない。人生ってやっぱりいろんなことが起こるじゃない。そういう時に音楽があることで自分がすごく助けられたことかずいぶんある。ベートーヴェンを聴いたりして自分の気持ちが癒されたりするっていうことがね。ふつうの音楽好きな人って音楽全般何でも聴くけど、僕はそうでもないんだよね。やっぱりその時に必要な音楽って言うのが必ずあるような気がするわけ。だから僕にとっての音楽というのは、音楽全般じゃないパーソナルなものが自分の中にすごくあるような気がする。人生の小さいドラマがあった時に涙を流すような音楽っていうのがいくつかあるわけよ。だから実際よく音楽家でもいろんなものを聴いてやっている人もいるけど、そこまでマニアックにいろんなことをやっているわけでもないんだよね。割と限られたものが僕は好きだっていう感じ。例えばピアノ曲にしてもピアノ曲全部を聞くわけじゃなくてシューベルトのソナタとかベートーヴェンのソナタとか、割と限定して。だからオーケストラでも僕はそんなにしょっちゅう聴くわけじゃない。でも小学校1年生ぐらいの時からN響の定期演奏会は父に連れられて日比谷公会堂の一番上の方でずっと聴いていたんだよ。そういう意味で音楽は割と身近にあった。説明が難しいけど、音楽っていうのはその人その人に合った、巡り合うものがあるんじゃないかっていう気がするんだよね。だからあんまり他のことをしながらクラシックは聴けないわけ。聴く時はやっぱりちゃんと聴かないと。音楽は僕にとってはすごく必要だったなと思うよね。それにやってよかったと思う。父がクラシック音楽をやっていたことで、その世界に割と小さい時から自然に入れたっていうのはすごく恵まれているなと思う。

--音楽=チェロという感じですか?
僕はチェロを弾くことはすごく好き。自分でもものすごく好きだと思う。チェロと言う楽器がまず好きだし、音にしても形にしてもね。だけど、じゃあチェロを通して何かをすることに誇りを持っているかっていうとそうでもないんだよ。そこまで自信がないっていうか。だからソロなんかあんまり弾きたくないし、だけど自分で勉強を積み重ねているのはすごく好き。前より時間的にも勉強している。ドイツの家は丘の上の方にあって、さらにその上が森になっていて、街がちょっと遠くに見える。1980年ぐらいに建ったヴィラ(邸宅)で、すごくきれいなんだよ。映画も撮りに来たり。借りているんだけど、素晴らしい家なんだよ。外から見てもすっごくきれい。大家さんが庭をきれいにしていて。帰るとほっとするわけ。空が見えて空気がよくて、天井が高くて空間があって光が入ってきて。冬は暗いけどそれでもあんまり憂鬱にならないっていう感じ。そういうところでベートーヴェンのソナタを勉強するとか、すごくいいんだよね。だからそういう時が一番楽しい。発表する時はきついけど。それは若い時とちょっと違うと思う。若い時は長時間がむしゃらにただ勉強していたみたいなところがある。あんまり考えていなかったし、不器用っていうのもあった。だけど、今は考えながら勉強すると、いろんなことがわかってくる。それに前にできなかったことができたりするわけ。みんな歳をとるとできなくなるって言うんだけど、僕はよく考えると若い時よりいろんなことができるようになっているんだよね。若い時にあまりにもできなかったせいもあるかもしれないけど。それが必ず人前で成功するかどうかはよくわからないけど、勉強する過程で発見がまだある。だからまだ続けているみたいなところがあるんだよね。それと、いい時代を生きたなと思う。1960年代の後半から90年代に入って少しずついろんなことが変わってきたけどそれでもすごくいい時代だと思う。音楽家としていろんな面白い人にも会えたしね。そういう意味ではすごくよかったなと。

--貴重なお話をありがとうございました。

2014年9月取材
※インタビュー内容・写真は取材当時のものです。
※プロフィールの内容は2014年10月31日現在のものです。
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